旅行人山荘の歴史

 丸尾温泉は文政2年(1819年)に発見されました。地元の湯治温泉として歴史重ね、 明治後期には野島陸軍少将の別荘で利用されていたと言われます。

 大正6年、蔵前仁蔵がこの温泉を譲り受け丸尾温泉旅館を始めたのが旅行人山荘のルーツです。当時、今のみやまコンセール付近には広大な国立種馬牧場があり丸尾温泉は湯治客や牧場関係のお客様で賑わったそうです。

 昭和9年、日本で初めて霧島国 立公園に指定されると丸尾旅館にも全国から観光客が訪れるようになり、当館には与謝野晶子、斉藤茂吉、野口雨情などの作品が残っています。その後新婚旅行ブームにわいた昭和43年、現在の地に移転して霧島プリンスホテルとなり、平成9年、名称を旅行人山荘と変え現在、創業100年目に至っています。

大正6年創業時の丸尾温泉旅館

大正6年創業時の丸尾温泉旅館

昭和初期の丸尾旅館

昭和初期の丸尾旅館

昭和40年頃の丸尾旅館

昭和40年頃の丸尾旅館

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 丸尾温泉は文政2年(1819年)に発見されました。地元の湯治温泉として歴史重ね、 明治後期には野島陸軍少将の別荘で利用されていたと言われます。  大正6年、蔵前仁蔵がこの温泉を譲り受け丸尾温泉旅館を始めたのが旅行人山荘のルーツです。当時、今のみやまコンセール付近には広大な国立種馬牧場があり丸尾温泉は湯治客や牧場関係のお客様で賑わったそうです。  昭和9年、日本で初めて霧島国 立公園に指定されると丸尾旅館にも全国から観光客が訪れるようになり、当館には与謝野晶子、斉藤茂吉、野口雨情などの作品が残っています。その後新婚旅行ブームにわいた昭和43年、現在の地に移転して霧島プリンスホテルとなり、平成9年、名称を旅行人山荘と変え現在、創業100年目に至っています。
大正6年創業時の丸尾温泉旅館

大正6年創業時の丸尾温泉旅館

昭和初期の丸尾旅館

昭和初期の丸尾旅館

昭和40年頃の丸尾旅館

昭和40年頃の丸尾旅館

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恵まれた環境に感謝して
自然を大切にします

美しい霧島の自然を敬愛し、環境に配慮した植栽や省エネを心がけます。そのために「霧島ふるさと命の森をつくる会」などに積極的に参加します。

社会に貢献できることに感謝して
信用を大切にします。

私たちが社会の一員であることに誇りをもち、新しい価値の創造をめざします。そして利益の1%は慈善事業団体に還元します。

お客様に感謝して
親切な心を大切にします。

笑顔のある心豊かな仕事をします。お客様とともに喜びを分かち合い、幸せの輪を広げます。

平成19年には創業90周年の下記のような記念事業をしました。

平成19年6月22日 旅行人山荘は大正6年の創業以来90周年を迎えました。

大正・昭和・平成にわたる歴史を経て今日を迎えることができましたのは、

皆様の温かいご支援とご指導の賜物と深くお礼申し上げます。

◎記念植樹

樫の木はどんぐりの実をつけて小鳥や獣たちの大切な餌になります。 また霧島固有の蝶キリシマミドリシジミ(天然記念物)はアカ樫の木だけに棲息します。霧島の自然によく似合う樫の木をを90本記念植樹いたしました。

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◎90年の歴史を映す写真展

当館には昭和初期に霧島に訪れた野口雨情や斎藤茂吉、与謝野晶子などの作品が残っています。それらの作品とともに90年の歴史を振り返る貴重な写真を掘り起こしギャラリーに展示しました。

◎旅のエッセイ 旅行人山荘賞

たくさんのご応募があり全員に記念品をお送りしました。

◎グランドピアノの設置

霧島国際音楽祭は霧島の夏の一大イベントに成長し、内外からたくさんの音楽家が集まります。その練習生に少しでも役に立てればと思いグランドピアノを設置しました。もちろん宿泊のお客様が演奏されたり、また旅行人山荘独自の演奏会にも使用します。

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◎郵便ポストの復活

日中戦争の激化にともない昭和13年(1938)の国家総動員法により統制経済となり、郵便ポストも鉄製から木製やコンクリート製となりました。昭和20年の終戦より再び鉄製ポストとなってコンクリートポストはほとんど処分されました。8月14日 長い間使用せず保管してあったコンクリートポストを再び山荘玄関前で活用することになりました。

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◎ワンパーセントクラブの創設

90周年を記念して1%クラブを創設し利益の1%を社会支援事業とします。 観光に従事する私たちにとって思いやりと親切な心こそが大切なサービスであり、 そこから生まれる利益をすこしでも社会に還元し喜びを分かちあえることを願っています。

旅行人山荘100年の歴史

◎丸尾旅館誕生

牧園町郷土誌や鹿児島県発行の「鹿児島の温泉」にもあるように、大正6年蔵前仁蔵は「丸尾温泉」を高野友吉氏から譲り受けました。仁蔵はそれまで明礬温泉の支配人として働いていましたが、明礬温泉の主人であった高野友吉氏から丸尾温泉を譲り受け、これを発展させて丸尾温泉旅館に仕立てました。この時客室6、自炊室4と記録にあります。この丸尾温泉旅館が現在の旅行人山荘のルーツです。当時、今のみやまコンセール付近を中心に広大な国立種場牧場(高さ1.8mの土塁の延長は52km)があり、牧畜だけでなく、当時珍しかったトマトなどの生産もおこない、桜の名所としてもすでに有名であったと言われます。 また牧園村万膳には国立の製材所があり製材所団地や職員宿舎が建ち並んで賑わいを見せていました。霧島国有林から伐採された巨木大木を木馬(きんま)に乗せて、油を引いた小木を並べた山道を人力で製材所まで運んだり、またトロッコに乗せて牧園駅まで運んだと文献(牧園町郷土誌)にあります。現在でも製材所、種馬所、牧場は地名として残っています。 この当時の宿泊客は、牧場や林業、農業に従事する人たちの湯治や休養を目的とした自炊客主体でした。その他登山や神宮参拝客が徐々に増加していましたが、村外からの乗り物は馬、かご、馬車で、大正7年鉄道院発行の「鉄道旅行案内」には、「鹿児島本線【牧園】霧島温泉 東4里 馬車賃60銭。土地高燥避暑に適しこれより霧島神宮へ2里である」と記載されています。(注)当時現在の肥薩線は鹿児島本線でした。
▣ 昭和4年(1929) 初代林田熊一氏が林田温泉を開拓し、鹿児島市からの自動車交通網を構築し温泉の紹介や道路整備、輸送力強化を始めたことで霧島温泉は大きく発展していきます。 丸尾旅館も昭和4年に増築落成総工費3000円という記録が残っています。

◎丸尾旅館の発展

▣ 昭和6年(1931)  国立公園法が施行され、国立公園創設の機運が高まると日本中で誘致運動が湧き起こりました。宮崎県と鹿児島県も共同で県下をあげて運動を行い、昭和9年、日本で最初に霧島国立公園が指定されました。これより保養休養の宿泊客のほか団体の観光客なども訪れるようになり、温泉施設、宿泊施設が整備され、旅館の新築増築が急速に行われ、現在の霧島温泉の礎が出来上がってきました。
▣ 昭和9年(1934) 6月 霧島国立公園協会発行の「霧島国立公園案内」に丸尾温泉は下記のように紹介されています。丸尾温泉(鹿児島県姶良郡牧園村) 霧島4温泉に至る沿道にあり。この温泉は文政2年の発見。アルカリ性炭酸泉で旅館設備もよく整い、通話、交通、至便。前期4温泉に次ぐ温泉である。付近には丸尾滝、千畳敷の名所あり。背後の高原は散策に快適、唯一のキャンプ場である。付近には別荘も散見される。牧園駅と神宮道路の分岐点であるから将来がある。(注)4温泉とは硫黄谷、栄之尾、明礬、林田の各温泉をいう。
▣ 昭和26年(1951) 6月 丸尾旅館の客室を増築17部屋となる。日本観光旅館連盟会員登録
▣ 昭和29年(1954) 11月 温泉プール、大広間を増築し有限会社丸尾旅館を設立。
▣ 昭和37年(1962) 別館丸尾南館(21部屋)完成。

◎高度成長と霧島プリンスホテル

大阪万博や家電の普及、GNP世界第2位といった高度成長期に、霧島温泉では新婚旅行のブームが到来しました。日本中から正装スーツ姿の若いカップルが押し寄せ、ホテル旅館は連日新婚さんで満室という状態が続きました。定期バスが臨時便で2台3台と連なってバス停に到着すると、そこから降りてくる乗客は全員が新婚さんで、各ホテル旅館はマイクロバスでお迎えに出ていました。そして、「旅館」を「ホテル」と名称を変更して洒落た雰囲気を心がけ、今までとは全く様相が異なる温泉街に変貌していきました。新築増築のホテル旅館が相次ぎ、お客様をお迎えする収容能力が飛躍的に増大しました。昭和42年、丸尾旅館は新婚旅行に適した静かな環境と広い敷地を求めて現在の地に移り、鉄筋5階建ての霧島プリンスホテル(客室55室)と名称を変更しました。
▣ 昭和42年(1967) 霧島公園観光有限会社と改名し霧島プリンスホテル建設に着工する。
▣ 昭和43年(1968)12月 霧島プリンスホテル開業。
▣ 昭和44年(1969) 日本観光旅館連盟、国際観光旅館連盟会員となる。
▣ 昭和45年(1970) 政府登録旅館の認可を受ける。
▣ 昭和51年(1976) 露天風呂 赤松の湯完成

◎旅行人山荘

しかし新婚旅行ブームは長くは続かず、沖縄やハワイなどに旅行先が移ると収容能力が増えたホテル旅館は苦しい時代を迎えます。観光協会や行政が一体となって様々なイベントを組んで誘客活動をするようになり、組合や協議会、慰安旅行などの団体、また会議宿泊などの団体客を迎えるようになりました。現在は団体客も減少し個人客主体の時代、そして外国人観光客を迎えるという時代です。霧島プリンスホテルは旅行人山荘と名称を変え、新婚客や団体客主体の施設から個人客、家族客主体の施設への改善を急ぎました。
▣ 平成10年(1998) 旅行人山荘と改名する。
▣ 平成12年(2000) 貸切露天風呂 もみじの湯 ひのきの湯完成
▣ 平成13年(2001) 錦江の湯 大隅の湯完成。味の素ブレンディのCM原田知世が「赤松の湯」で撮影され反響を呼ぶ。
▣ 平成18年(2006) 読売新聞「ぶらり湯煙の街」で赤松の湯が掲載される。
▣ 平成19年(2007) 創業90周年イベントを行う。
▣ 平成20年(2008) 第4回ほっとハート南九州キャンペーン優秀賞を受ける。隼人保健所から優秀施設として表彰される。 日本エアコミューター機内誌にもみじ湯が掲載される。 JR温泉峠手帖「鹿児島スイッチ」CMが赤松の湯で撮影される。
▣ 平成21年(2009) JTBより優秀旅館として表彰される。 日経新聞に「鳥歌う森の中の湯」として掲載される。JR温泉峠手帖ポスターにもみじの湯が掲載される。
▣ 平成22年(2011) 新燃岳噴火。隼人保健所優秀施設表彰される。 長崎放送で赤松の湯が放映される。
▣ 平成25年(2013) 玄関改築。ヤフー温泉ランキング全国2位に選ばれる。旅の手帖、HANAKOなどに掲載される。
▣ 平成26年(2014) ピアノのゆうべ100回記念コンサート WIFI工事完成。 絶景の宿RKB全国第2位に選ばれる。 日経新聞「何でもランキング」「紅葉露天」で全国第4位として掲載される。
▣ 平成27年(2015) 濁り湯と絶景の宿としてTV東京、BS-TBS、RKB放送などで放映される。トリップアドバイザーが5年連続優秀旅館として認定し殿堂入りとなる。
▣ 平成28年(2016) 雑誌「旅行読売」に赤松の湯が掲載される。 ノジュール9月号に大隅の湯が掲載される。 経済産業省発行インバウンド広報誌「The Wonder of KYUSHU」に掲載される。

創業者・蔵前仁蔵について

 蔵前仁蔵は明治19年12月18日 川辺郡(今の南九州市)川辺郷平山村345番戸に生まれました。当時の戸籍には安政元年2月12日生まれの蔵前善助、セン亀夫婦に長男市太郎、次男仁蔵、長女イチ亀、次女亀松と記載されています。
 仁蔵は明治32年1月、13歳で内門氏のお世話により霧島明礬温泉で奉公人として働き始めます。当時のご主人は野田東作氏と記録にあります。明治44年9月明礬温泉は洪水により18名が死亡という大きな災害もありましたが、大正3年仁蔵は認められて支配人に任じられ、大正4年には川辺郷田部田の畠中三太郎の長女イチガメと結婚しています。この頃明礬温泉のオーナーは髙野友吉氏となり仁蔵はたいへんな恩義をいただいたようです。そして大正6年(1917年)に3000円を借り入れて丸尾温泉を譲り受け、丸尾温泉旅館を開業したと記録にあります。昭和2年、5000円を投じて丸尾温泉のすべての権利を手に入れ、昭和4年には木造2階建てを増築して湯治客だけでなく観光客も迎えるようになっています。
 昭和6年(1931)国立公園法が施行され、国立公園創設の機運が高まると日本中で誘致運動が湧き起こりました。鹿児島県は宮崎県と共同で誘致運動を行い、仁蔵たちはそのための膨大な数の葉書を毎日毎日書いたそうです。そして昭和9年日本で最初に霧島国立公園が指定されると全国に名前が広がり各旅館の新築増築が急速に行われ、霧島温泉郷が形作られていきます。

左から仁蔵、長男壮吉 長女しのぶ 妻イチガメ

大正11年6月10日上棟記念

創業者:蔵前仁蔵 / 明治19年12月18日〜昭和38年11月23日

 仁蔵は教育委員や町内会長、自治区長、福祉委員、保護司、民生委員などを歴任し昭和38年11月23日に80歳で亡くなりました。たいへん信心深い人柄で、浄土真宗本山から布教に訪れた坂口昭円和尚に協力してこの地に高台寺を建立し、昭和32年「大正11年より総代を勤め幾多の浄財の寄与で貢献の誠をつくした」として高台寺開基35周年での表彰を受けています。明治時代、小学校卒業後に霧島に来て温泉旅館で奉公人として働き、たいへんな苦労のうえ大正6年に旅館を開業したのですが、100年の歴史を経て今日を迎えることができましたのは、皆様の温かいご支援とご指導の賜物と深くお礼申し上げます。

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